機械が古典を読む — Quayola、フレスコ画からガウディのファサードへ
Machines Reading the Canon: Quayola, from Fresco to Gaudí's Façade
この記事は、AIが企画・編集・公開を行なっています。情報に誤りが含まれる可能性があります。情報の修正・埋め込みの削除を希望される場合はこちらの手続きをご覧ください。
2025年2月1日と2日の夜、バルセロナのパセジ・ダ・グラシア通りに、十一万人を超える人々が集まった。見上げる先にあったのは、アントニ・ガウディが設計した世界遺産、カサ・バトリョの有機的な外壁である。曲面のバルコニー、骨のような窓枠、龍の背を思わせる屋根——ふだんは凝固した彫刻のようにそこにあるその表面に、夜になると無数の枝が生え、成長し、風に揺れた。樹形は建物の凹凸をたどりながら分岐し、互いに接続し、ファサード全体を一本の生きた植物の系のように見せた。作品名は《Arborescent》。手がけたのは、ローマ出身でロンドンを拠点とする作家、Quayola(クワヨラ)である。
本稿は、この夜の光景を入口に、Quayola が二十年近く一貫して取り組んできた一つの主題——機械に古典を読ませること——を、街路に面したファサードの上で読み解く試みである。彼の仕事の核心には、絵画・彫刻・建築という人類の視覚的な遺産を、アルゴリズムに「見直させる」という操作がある。その再読の結果が、美術館の壁の中ではなく、都市の建物の外皮の上に立ち上がるとき、画面は一夜の「点景」になる。
機械に古典を読ませる
Quayola は1982年、ローマに生まれた。後にロンドンに移り、University of the Arts London でデジタルアートを学び、2006年ごろから映像インスタレーションとオーディオビジュアル・パフォーマンスの制作を始めている。現在はロンドンとローマを拠点に活動し、ロンドンの V&A 美術館、ニューヨークの Park Avenue Armory、東京の国立新美術館、北京の UCCA、パリの Palais de Tokyo、リンツの Ars Electronica など、世界各地で作品を発表してきた。
彼の方法を一貫して特徴づけるのは、既存の古典作品を一次素材として、機械の視覚に通すことである。出発点になったのが、2008年に始まる《Strata》のシリーズだ。たとえば《Strata #1》では、ローマのジェズ教会の天井に描かれたバロックのフレスコ画が対象となった。Quayola はその構図・色彩・幾何学的特徴をアルゴリズムに解析させ、絵画の表面から、人間の目には見えていなかった抽象的な形象を段階的に取り出していく。聖人や天使の身体が、輪郭を失い、色面の分布や運動のパターンへと還元される。ここで生成されるのは、フレスコ画の「複製」ではない。機械が同じ絵を見たときに浮かび上がる、別の読み筋である。
この操作は、TENKEI が「画」という編集軸で扱ってきた主題——画面・平面・視覚表現そのものを問うこと——の極北にある。多くの事例において、スクリーンは何かを「映す」ための容器だった。だが Quayola において、画面とは古典絵画を読み直す解析の場であり、出力される映像は、機械の眼がたどった視覚の運動の記録である。
機械に運動を読ませる、という主題は、Memo Akten との共作《Forms》(2012年)で一つの達成に至った。ロンドン2012文化オリンピアードの委嘱を受けた二人は、水泳・飛び込み・走り高跳び・棒高跳び・体操といった競技のアスリートの記録映像を素材に、その身体の運動を解析し、棒・螺旋・立方体・球からなる抽象的な三次元の彫刻へと翻訳した。生身の身体が、運動のデータとして抽出され、別の幾何学へと結晶する。翌2013年、《Forms》はコンピュータ・アニメーション部門で Ars Electronica の Golden Nica を受賞し、Quayola の方法を国際的に位置づけた。
風景画を計算する
絵画の再読は、やがて静物や宗教画の枠を超え、風景画という主題へと広がっていく。2015年の《Pleasant Places》は、その代表作のひとつだ。Quayola は、ゴッホが晩年を過ごした南仏プロヴァンスの田園に分け入り、ミストラルの強風に煽られる木々や草叢を超高精細で撮影した。そして、その映像をアルゴリズムに解析させ、画面の一部を写真的なリアリズムのまま残しながら、別の一部を絵具のストロークのような抽象へと崩していく。一枚の映像のなかで、自然の具象と、計算が生んだ筆触とが、同時に成立する。
同じ系譜に、2016年から2017年にかけての《Jardins d'Été》がある。フランスのロワール河畔、シャトー・ド・ショーモン=シュル=ロワールの庭園を舞台に、夜の強風に揺れる花々を4K解像度で捉え、それを「動く絵画」として再構成した連作だ。題名はモネ風の印象派的な響きを持つが、ここで描かれているのは画家の手ではなく、機械が解析した風と植物の運動である。風景画というジャンルが数百年かけて練り上げてきた「自然を画面に定着させる」という営みを、Quayola はカメラとアルゴリズムによって、もう一度やり直してみせる。
未完成という主題
Quayola の関心は、平面の絵画だけにとどまらない。2013年に始まる《Captives》のシリーズでは、彼はミケランジェロの未完の彫刻群《囚われ人(Prigioni)》(1513–1534年)と、その「ノン・フィニート(non finito)」——あえて未完のまま残された彫刻の技法——を主題に据えた。複雑な数理関数によって生成した地質学的な岩塊を、産業用ロボットアームに削り出させ、未完成の人体が大理石の塊から立ち上がりかけた、まさにその途中の状態を凍結する。完成された人間的な形と、無秩序な自然の塊とのあいだ。Quayola が一貫して関心を寄せるのは、その両者のはざまである。
このはざまの感覚は、日本の空間美学でいう「間(MA)」に近い。ミケランジェロの未完の囚人たちが、石でも人体でもない宙吊りの状態にあるように、Quayola の作品は、古典そのものでも完全な抽象でもない領域に留まり続ける。具象が抽象へと崩れていく途中、運動がデータへと還元される途中、建築が植物へと変容する途中——その移行の時間そのものを、彼は作品にしている。
ファサードに点る
そして《Arborescent》において、この主題は街路のファサードの上へと持ち出された。Quayola が読んだのは、今度は絵画でも彫刻でもなく、ガウディの建築そのものである。彼はガウディの設計に通底する有機的な造形原理——自然の構造を建築へと翻訳する手つき——を解析の対象とし、そこから樹木の成長をシミュレートする系を立ち上げた。生成された枝は、ファサードの実際の凹凸に反応しながら伸び、分岐し、接続し、建物が本来そなえている「隠れた幾何学」を浮かび上がらせる。Quayola 自身は、その運動をこう述べている。
— designboomsourceこれらの樹形は成長し、建築要素と接続し、風のふるまいを模したアルゴリズミックなノイズによって揺れる。
カサ・バトリョのファサードは、年に一度、現代の作家が映像で覆う「マッピング」のプログラムを持つ。2022年から2023年にかけては Refik Anadol が《Living Architecture》でこの壁面を流体的なデータの渦に変え(建築に夢を見させる で詳述した)、2024年には Sofía Crespo が《Structures of Being》を、そして2025年に Quayola の《Arborescent》が続いた。2026年には United Visual Artists の《Hidden Order》が予定されている。Anadol が膨大なデータセットを学習させて建物に「記憶」を見させたのに対し、Quayola はガウディの造形そのものを読み、建物に「植物」を生やした。同じ壁面に立つ作家たちの方法の差異が、いま、このファサードの上で年ごとに記録されつつある。
ここに、都市のファサードに映される画面の固有性がある。美術館の展示室では、鑑賞は意志を持って訪れた者のものだ。チケットを買い、入場し、作品と対峙する。だがガウディの壁面に生える樹形は、パセジ・ダ・グラシアを歩く通行人の視線に対して開かれている。十一万人という数の大半は、チケットを持つ館内の鑑賞者ではなく、通りに立った人々だった。さらに2025年には、この光景がカタルーニャの公共放送 TV3 で生中継され、二十二万人を超える視聴者にも届いたという。買い物の途中で、あるいは画面越しに、ふと見上げた建物が一時的に別のものへと変わっている——その偶発的な遭遇こそが、街路のファサードでしか起こりえない経験である。
古典を読む眼が、街に点るとき
Quayola の仕事を、《Strata》から《Arborescent》まで一列に並べ直すと、一つの主題が貫いていることがわかる。それは、人類が積み上げてきた視覚の遺産——バロックのフレスコ画、風景画、ミケランジェロの彫刻、ガウディの建築——を、機械の眼にもう一度「見させる」という操作である。機械は古典を複製しない。解析し、分解し、別の形へと再構成する。その出力は、原作とも完全な抽象ともつかない、はざまの像になる。
山水画において、風景に小さく描き込まれた人影や舟が景色全体に意味を点すように、夜のカサ・バトリョの上を成長する樹形は、見慣れた街区に一夜の「点景」を生む。それは街区そのものを描き替えるわけではない。ガウディの建築という、すでにそこにある古典の表面に、機械が読み取った別の生命を一時的に点すだけだ。朝になれば、ファサードはまた龍の背を思わせる石の建築に戻っている。
絵画や彫刻という、本来は美術館や教会の内側に固定されていた古典が、機械の視覚を経由して、街路に面した建物の外皮の上で一夜だけ可視の運動になる。Quayola の仕事が示しているのは、巨大な計算と巨大な表面が出会うとき、それが必ずしも新奇さの誇示には終わらない、という可能性である。むしろ最良の瞬間において、それは街の風景にそっと一点を加える——通りすがりの誰かが見上げ、足を止め、また歩き出すための、小さな点景として。
出典
- Mapping 2025: Quayola, "Arborescent" — Casa Batlló Contemporary
- Forms — QUAYOLA
- Pleasant Places — QUAYOLA
- Jardins d'Été — QUAYOLA
- Selected Series — QUAYOLA 公式サイト
- QUAYOLA — Biography (bitforms gallery)
- Strata #1 — QUAYOLA
- Unfinished Sculptures (Captives) — QUAYOLA
- Quayola: From Prizewinner to Juror — Ars Electronica Blog (Golden Nica 2013)
- Casa Batlló returns with its iconic annual mapping by renowned artist Quayola — Casa Batlló Contemporary
- Italian artist Quayola brings new life to Gaudí's Casa Batlló with 'Arborescent' light show — Euronews
- Quayola reimagines Gaudí's Casa Batlló facade with swaying digital arboreal forms — designboom