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窓辺の炎から四夜の光へ — リヨン Fête des Lumières と市が灯す光祭

From Candles on the Sill to Four Nights of Light: Lyon's Fête des Lumières, a Festival the City Lights

No.
137
種別
事例
著者
SCREENS LANDSCAPE 編集部
日付
読了
11分

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十二月のリヨンは、日が短く、夕方の五時にはもう暗い。ローヌとソーヌの二つの川が合流するこの街で、八日前後の数夜、家々の窓辺に小さな炎が並ぶ。ガラスの器に入れた色とりどりのろうそく——地元で lumignon と呼ばれる——を、住民が窓枠やバルコニーに置いていく。同じ夜、旧市街の大聖堂の壁面には巨大な映像が投影され、広場の噴水や河岸の並木が光のインスタレーションに変わる。窓辺の一点の炎と、建築を丸ごと覆う投影とが、同じ十二月の闇のなかに同居する。Fête des Lumières(光の祭典)は、この街が毎年冬の入り口に灯す、世界でも最古格の光のフェスティバルである。

本稿が読み解くのは、この祭典が「市そのものが灯す光」として、宗教的な習わしから行政主導の都市イベントへと形を変えながら続いてきたという事実である。本誌が「候(KO)」と呼ぶカテゴリ——気候や季節、時限性を作品成立の条件とする系譜——のなかで、Fête des Lumières は、十二月八日という一日と、冬の長い夜という気象条件そのものを起点に組み立てられた、際立って古い事例にあたる。

fig.001Yann Nguema(EZ3kiel)による《Évolutions》。2016年の Fête des Lumières でサン・ジャン大聖堂の正面に投影され、石造の壁面が音楽に合わせて分解・変形していく。観客投票の Trophée des Lumières を受賞した。Yann Nguema (EZ3kiel)'s Évolutions, projected onto the facade of Lyon's Saint-Jean Cathedral at the 2016 Fête des Lumières, where the stone wall breaks apart and reforms to music. It won the audience-voted Trophée des Lumières.© Yann Nguema / EZ3kielsource

一八五二年の窓辺

祭典の起源は、一つの銅像の除幕にさかのぼる。一八五二年、リヨンの街を見下ろすフルヴィエールの丘に、聖母マリアの像を据えることが決まった。除幕は当初九月八日に予定されていたが、ソーヌ川の増水で像の準備が間に合わず、司教は日程を十二月八日——カトリックの「無原罪の御宿り」の祝日——へと移した。

ところが当日の朝、今度は嵐がリヨンを襲う。式典の中止が一度は決まりかけたが、夕方になって空が晴れると、除幕を心待ちにしていた市民たちが、示し合わせたわけでもなく、自分の家の窓辺に火を灯しはじめた。街じゅうの窓が光の点で埋まり、人々は通りへ出て、丘の上の新しい像とフルヴィエールの礼拝堂を照らした。この自然発生的な「窓辺の灯」が、Fête des Lumières の原型になった。以来、十二月八日前後にろうそくを窓辺に並べる習わしは、行政のプログラムとは別に、いまも市民の手で続いている。

ここで注目したいのは、この起源が「気象に翻弄された結果」だったという点である。増水が日付を十二月へずらし、嵐が式典を一度は潰しかけた。その偶然が、冬のいちばん暗い時期に、街全体が同時に光を灯すという型を残した。祭りが季節の産物であることは、最初から祭りの内側に書き込まれている。

一九八九年の Plan Lumière、一九九九年の再編

窓辺のろうそくという民間の習わしが、都市スケールのフェスティバルへと拡張されたのは、二十世紀の終わりだった。転機は一九八九年、リヨン市が欧州の都市として初めて「Plan Lumière(光の計画)」を採択したことにある。これは、歴史的建造物や橋、河岸を夜間に照明で演出し、都市の景観そのものを光でデザインするという、行政による長期の照明政策だった。街を一枚の作品として夜に描き直すという発想が、ここで公共政策の言葉になった。

この照明政策を背景に、市は一九九九年、十二月八日の宗教的・民間的な祝いを、四夜にわたる公式のフェスティバルへと再編する。名を「Fête des Lumières」とし、作家を招いて広場や建築に作品を委嘱し、街路を順に巡る回遊型の催しに仕立てた。二〇二四年に祭典は二十五周年を迎えており、この年数は、現在の多日程フェスティバルが一九九九年に始まったことを裏づけている。運営の主体は一貫してリヨン市であり、何をどの建築に灯すかという編成の判断を、市が担い続けている。

リヨンが光を都市政策として引き受けた射程は、一都市の祭りにとどまらない。市の呼びかけで二〇〇二年に発足した LUCI(Lighting Urban Community International)は、都市照明をテーマに世界の七十以上の都市が参加する国際ネットワークへと育った。冬の四夜という時限のイベントの足元に、一年を通じて都市の光を設計するという常設の政策と、それを他都市と共有する枠組みがある。

fig.002Fête des Lumières の公式ティーザー。広場・河岸・歴史的建造物を舞台に、四夜のあいだ街全体が光の回遊路に変わる様子を伝える。An official teaser for the Fête des Lumières, conveying how squares, riverbanks and historic buildings turn the whole city into a walkable circuit of light over four nights.© Ville de Lyon / ONLYLYON Tourismesource

建築を画面にする

Fête des Lumières の中核をなすのは、歴史的建造物の壁面に映像を精密に載せるプロジェクションマッピングである。リヨンの旧市街には、ルネサンス期の街並みやゴシックの大聖堂が濃密に残っており、その石造の壁が、会期中の夜だけ巨大な画面へと転用される。

冒頭に置いた《Évolutions》は、その到達点の一つだ。作家 Yann Nguema——バンド EZ3kiel の一員でもある——は、サン・ジャン大聖堂の正面に投影するにあたって、壁面を平らなスクリーンとして扱わなかった。大聖堂の石の一つひとつを画素として捉え、自ら開発したソフトウェアで、建築そのものを分解し、再構成し、音楽に合わせて呼吸させた。平面へ映像を貼るのではなく、石積みの立体を映像の運動に取り込む——本誌が別稿で見たシドニーのオペラハウスの帆への投影と同じく、支持体となる建築の形状を消さずに使い切る手つきである。

作品の評価には、観客が投票で選ぶ Trophée des Lumières という仕組みが用意されている。批評家や審査員だけでなく、街を歩いた人々の票が、優れた作品を選ぶ。行政が編成し、作家が制作し、観客が投票する——公共の予算で動く光の祭典が、その正統性を「来場者の支持」に置いていることが、この賞の設計からも読み取れる。

規模は年々変わる。二〇二五年の版は、市内のおよそ二十か所に二十三の作品が置かれ、二百万人を超える来場があったと市は公表している。二十五周年の二〇二四年には三十二作品が並んだ。作品の多くは屋外の公共空間に置かれ、観客は入場券を買うのではなく、冬の街を歩くことそのもので作品に出会う。祭りが終われば、大聖堂の壁は元の石の色に戻り、広場は日常の広場に戻る。

二〇一五年、灯を消すという選択

この祭典が季節と集会に深く依存していることは、それが一度止まった年に、もっともはっきり現れた。二〇一五年、開催直前の十一月十三日にパリで同時多発テロが起き、フランスは非常事態を宣言する。リヨン市は、大群衆が街路に集まる Fête des Lumières の開催を中止した。

しかし市は、街を完全に暗くはしなかった。公式のプログラムを取りやめる一方で、市民に対しては、あの一八五二年以来の習わしのとおり、窓辺に lumignon を灯すよう呼びかけた。そして河岸の建物には、犠牲者たちの名前が投影された。華やかな投影作品の代わりに、窓辺の小さな炎の連なりと、名前だけの光が街を満たした。派手な演出を削ぎ落としたその夜、祭典の根が、行政のプログラムではなく、市民が窓辺に灯す一点の火にあることが、逆説的に可視化された。

この出来事は、「候」というカテゴリのもう一つの側面を照らす。季節に依存する催しは、季節だけでなく、その季節に人が集まれるかどうかという社会の条件にも依存している。冬の暗さは毎年巡ってくるが、街路に人が出られるかどうかは、その年の状況しだいで変わる。光を灯すという行為は、天候と同じくらい、人々が安心して夜の街に出られることを前提にしている。

冬の闇に点される光

Fête des Lumières が示しているのは、都市の行政が「光を灯す主体」になりうるという型である。美術館のキュレーションとも、商業施設の没入興行とも、広告枠の時限開放とも違って、ここでは市そのものが編成主体となり、冬のいちばん暗い時期に、住民の窓辺の炎から大聖堂への投影までを、一つの祭りとして束ねる。

山水画における点景は、広大な山河のなかに小さく描き込まれた人物や舟が、風景全体に意味と尺度を与えるという概念だった。十二月のリヨンにおいて、その「地」となるのは冬の長い夜の闇である。日没が早く、空気が冷え、街が暗くなる——その巨大な「間」があって初めて、窓辺の一点の炎も、建築を覆う投影も、図として浮かび上がる。闇がなければ、光は点景になりえない。

本誌はこれまで、南半球の冬に開かれるVivid Sydneyや、中欧の秋に街を占めるSignal Festivalを通して、季節を前提に組まれた光の催しを見てきた。そのなかで Fête des Lumières が際立つのは、起源が一つの冬の夜の偶然にあり、そのとき市民が自発的に灯した窓辺の火が、百七十年を超えていまも民間の習わしとして残っている点である。行政が編成する巨大な投影の足元に、消えずに続く小さな炎がある。祭りが終われば投影は消え、街は日常に戻る。それでも、冬がまた巡り、十二月八日が近づけば、窓辺にはまた一つずつ火が灯される。市が灯す四夜の光は、その市民の炎を地として、はじめて意味を持つ。

出典

  1. fig.001Yann Nguema — Fête des Lumières(公式・作家ページ)
  2. [2]Yann Nguema — Mapping "Évolutions"(作家公式)
  3. fig.002Fête des Lumières — 公式サイト(Ville de Lyon)
  4. [4]Fête des Lumières — The story behind the festival(公式・沿革)
  5. [5]Fête des Lumières — Tribute to the victims of the Paris attacks(公式・2015年)
  6. [6]Lyon's festival of lights remembers Paris victims — Euronews(2015年の追悼)
  7. [7]LUCI Association — About(2002年、リヨン市の呼びかけで発足)
  8. [8]Festival of Lights (Lyon) — Wikipedia(起源・沿革・来場規模)

運用カルテ

運営主体
リヨン市(Ville de Lyon)
掲出地
リヨン
編成モデル
フェスティバル編成 — 1852年の宗教的伝統(12月8日、窓辺に灯を置く習わし)に起源。1989年に欧州で初めて Plan Lumière を採択し、1999年に市が現在の多日程フェスティバルへ再編。市が編成主体となり、作品を委嘱・公募する
作家への対価
市の委嘱・公募による制作。会期後に観客投票の Trophée des Lumières が優れた作品へ贈られる
稼働リズム
毎年12月8日前後の4夜(2026年は12月5〜8日)、おおむね19〜23時
物理仕様
リヨン市街の広場・街路・河岸・歴史的建造物へのプロジェクションとインスタレーション。2025年は約20か所・23作品、2024年(25周年)は32作品
運用開始
1999
稼働状態
稼働中 — 2015年は11月のパリ同時多発テロを受けて中止。犠牲者への追悼として、窓辺の lumignon(ろうそく)のみが灯された

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